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「本が読めない33歳が国語の教科書を読む~やまなし・少年の日の思い出・山月記・枕草子」の紹介とレビュー

読書に苦手意識を持つ大人が、もう一度「教科書的な文学作品」に向き合うという本書のコンセプト。自分自身も「読まなきゃ」と思いながら途中で止めてしまう本がいくつもあって、どこか他人事ではないような気がして、とても気になりました。

著者「かまど」さんが、かつて教科書で学んだ「やまなし」「少年の日の思い出」「山月記」「枯草子」という4編を、30代半ばという視点で改めて読み返し、自分なりの読み方や感じたこと、当時とは違う視点での疑問や発見を書いていく――という構成が、本書の大きな枠組みです。

このレビューでは、各作品に対する著者の読み直しと解釈のポイント、そしてその過程で私自身が感じたこと、さらに「本が苦手な大人が教科書の文章に向き合う意味」について考えてみたいと思います。


第1章:「やまなし」に取り組む──風景としての言葉と、自我の揺らぎ

「やまなし」は宮沢賢治の短い童話で、川の中のカニやサワガニの視点から描かれる時間の流れや自然の営みを通して、読み手にさまざまな想像を促します。かまどさんは、最初にこの作品に対して「なんとなく知っている」「でも実はよくわかっていなかった」という自分の立ち位置を明確にし、「なぜこの短い話がこんなに多くの議論や解釈を呼ぶのか」を問い直していきます。

特に印象深かったのは、「やまなし」の“カニ”たちの目線という視点です。かまどさんは自分が大人になって「時間」や「成長」や「死」というテーマを知ってしまっているからこそ、かつての自分には気づけなかった“時間の経過の感じ方”や“存在の有限さ”を、改めて感じ取ると記しています。そして、カニたちの“世界”が一時的であること、川の中の“外側”にある別の時間軸の存在に気づくことの驚きと恐れが、自分の中にじわじわと入ってきた様子を丁寧に描いています。

この読み直しを通じて、**“知ってしまった”ことと、“知らなかった”ままの感覚”**のギャップが、作品を再読するときにどれほど読む感覚を変えるか、という点を強調しているのが興味深かったです。「大人の読み方」では到達しえない、“純粋に見る”視点を再考したいという思いが随所に現れていました。

ただ、かまどさん自身も「そういう“無知”からくる読み方を失ってしまっている自分”がよいとは限らない」という反省を示しており、読み手としての成熟と無垢さの間で揺れる気持ちが、本書を通じての大きなテーマであることを感じました。


第2章:「少年の日の思い出」を読む──郷愁と記憶の風化

次に取り上げられるのは、武者小路実篤の「少年の日の思い出」。この短編は、幼い頃の田舎での過ごし方や、家族や友人とのやり取り、そして成長する過程で失われていくものへの郷愁を描いた作品です。もともと“懐かしい田舎の情景”や“子ども時代の自由さ”というテーマを漠然と覚えていた著者ですが、改めて読み返す中で、“記憶”そのものの曖昧さ時間の中での感情の変化についての考察を深めていきます。

かまどさんが注目するのは、「覚えていること」と「忘れていること」のギャップ、そして「覚えている」と思っていた記憶さえも、実は“思い込み”だったのではないかという疑念です。彼は、自分が子ども時代に感じた“決定的な瞬間”として記憶していた風景や出来事が、実はその後の記憶や他者の語りによって形作られていたのではないか、という可能性を検討します。

さらに、“大人の自分”が“少年”の自分の感情や判断をどう見るかという視点のズレも丁寧に描かれています。たとえば、幼い自分が友人や自然とどう関わっていたかを振り返るとき、当時の“無邪気さ”や“即断即決の行動”に対して、大人としての後悔や理解不能な部分が生じることがある、という指摘が印象的でした。かまどさんは、このズレ自体が「懐かしさ」と「苦さ」の混ざった再読の醍醐味だと述べています。

読後、私自身も、自分の“少年時代”の体験を、今の視点からどう見直すか、そこにどんな“思い込み”や“美化”が入っていたかを考えざるをえませんでした。また、思い出や記憶を語る行為自体が、ある意味で“再創造”であるという指摘は、非常に示唆的でした。


第3章:「山月記」──人間と虎、言語と自己の狭間

「山月記」は中島敦の代表作として、自己と才能、誇りと破滅といったテーマを扱う短編です。主人公の李徴が自らの“才能”と“自我”の狭間で苦悩し、最後には虎になってしまうという物語は、読む人それぞれの立場によって多様な解釈を可能にします。

かまどさんはまず、「李徴=虎になること」のメタファーとしての意味を再検討します。以前の自分は「才能を持て余し、プライドに滅ぼされる人物の悲劇」としてこの話を読んでいたけれど、大人になってから再読すると、「虎という存在」と「自らを虎だと認識してしまった人間」の**“見られること”“語られること”に関する恐怖という視点が強く浮かび上がってくると述べます。

さらに、言語の力他者との対話という観点からの読み直しが特に印象的でした。李徴が詩人としての自分を誇る一方で、他者と真に向き合えず、自分の思考や感情を“言葉”として外に出すことの難しさに苦しむ姿が、改めて際立って見えてくるというのです。かまどさんは、かつての自分が見落としていた「言葉を持つこと」の重みと、「言葉を持たない/持てない」ことの孤独を、この再読で強く感じたと書いています。

この部分を読んで、私は「自己表現」や「言語化」の苦しさを抱える人々が、この作品から何を学び、あるいは何に共感するのかを考えました。李徴の変身は、才能やプライドの喪失というよりも、**“自分自身を語れなかった人間”**がたどる道として読み直すことで、現代の「表現すること」に悩む人たちの話としても響きうるのではないか、という思いに至りました。


第4章:「枯草子」をめぐって──静かな観察者としての私

最後に取り上げられるのは、夏目漱石の「枯草子」。これは漱石による随筆的な短編とも言える作品で、細やかな観察と、日常の中にあるちょっとした違和感や物思いを描いた作品です。かまどさんは、自分がこの作品を「読んだ」と思っていたけれど、実際には“ちゃんと読んでいなかった”のではないかという自覚から読み直しを始めたと述べています。

彼が注目したのは、漱石の「見ること」と「考えること」の重なりと断絶、そして**“他者”や“街の風景”を観察することの距離感**です。かまどさんは、漱石が細部をじっと見ることによって日常の“ずれ”や“違和感”を炙り出す方法と、それを読み手としてどう受け止めるか、ということを自問します。

ここでも重要なのは、観察者としての自分記憶や感情を持つ自分とのずれ、そして過去の自分現在の自分との距離**です。かまどさんは、「漱石の“目”に自分の“目”を重ねる」ことの難しさを実感しながらも、その試みが自分の読み方を深めてくれることを感じた、と書いています。

読後、私は“自分が見ている世界”と“作家や登場人物が見ていた/感じていた世界”の間にある視点のズレを、自分なりにどう埋めるか—or それを埋めないでおくか—という問いを、久しぶりに考えました。


全体を通して感じたこと:読むという行為の再定義

本書を読んで感じたのは、「読む」ということが、過去の“知識”や“予備知識”や“自分自身の経験”に基づいてつねに再構築される行為である、ということです。33歳の“本が読めない”という立場から、著者が四つの教科書的作品を再読していくプロセスは、**“読むこと”とはむしろ、“再び問い直すこと”であり、“読むこと”とは“自分自身と向き合うこと”**だということを示しています。

また、かまどさんが強く意識しているのは、「無垢な読み方」と「成熟した読み方」のあいだの緊張です。無知だからこそ感じられることと、知っているからこそ感じることの間で、読み方は常に揺れ動き、それゆえに「本を読むこと」は決して一方向の作業ではなく、むしろ揺れの中を行く作業なのだという指摘は、とても新鮮でした。

この点で、本書は“読書好きな人”だけでなく、“読書が苦手な人”──あるいは“読書に自信がない人”──にとってこそ、大きな励ましを含む本だと思います。「自分は本を読みこなせない」「途中で本を放り出してしまう」「昔読んだ本をもう一度読み返すなんて意味があるのか」と思っている人たちに対して、「それでも、読み直すことには価値がある」「読み直すことで“自分”の変化を見つけることができる」「読むことは自分を更新することでもある」と語りかけてくれる、本書は静かな勇気をくれる一冊です。

ただし一方で、かまどさんの読み直しのプロセスには強い自意識自己批判が常に付きまとっており、読み手自身が自分の内面を深く見つめることを求められる難しさもある、という側面も感じられました。「再読=自己検証」という枠組みに入るとき、そこには読み手の覚悟が必要であり、それがときに重荷となる可能性もあるということを、本書は暗に教えてくれます。


まとめ:この本を読む人へ

本書『本が読めない33歳が国語の教科書を読む』は、「教科書」という枠組みに収められた、古典とも現代とも言える作品を、再読という方法を通じて、“今の自分”の問いと重ね合わせて読み直す試みが描かれた一冊です。

  • 読書に苦手意識のある人でも、自分なりの読み方を持つことの意味や価値を改めて考えさせられる
  • 読み手としての自分の成長や変化、あるいは読み方のズレに気づくこと自体が、再読の大きな成果であるという視点
  • ただし、再読は単なる追体験や懐古ではなく、自己の問いを伴う作業であり、軽やかにできるものではないという覚悟も必要である、という現実

というポイントが、とりわけ印象に残りました。

もしあなたが「昔の教科書を読み返してみたい」「かつて読んだはずの本を、今の自分の視点で再度読み直してみたい」と感じているなら、本書はそのための良いガイドブックになってくれるでしょう。また、「自分は本を読み続けられない」「読み切る自信がない」と感じている人にとっても、「読むこと」「再び問い直すこと」「読み方を変えること」に対する新しい視点を与えてくれる、静かで丁寧な声を届けてくれます。

とはいえ、本書そのものが提示しているように、「読み直す旅」は決して軽やかではありません。時には、自分の過去や記憶、感情、価値観に深く潜り、その際に生じる違和感や問いと正面から向き合う勇気を要します。しかし、そのプロセスを通じて、「読む」という行為が、過去の自分を再確認するためのものではなく、“現在の自分を問い、更新するための行為”になりうるのだということを、著者は丁寧に示してくれます。

最後に、かまどさんのように、「もう一度、教科書を読み返してみる」ことに挑戦することで、“読む”という行為が、過去から未来へと続く自分自身の物語を再編する手段になりうるのだ、ということを、この本から学んだということを、読者として強く感じました。